過度の一般化は身を滅ぼすぞ

ほぼ全記事において勇者であるシリーズのネタバレを含みます

【結城友奈は勇者である】勇者の章最終話がいかに奇跡か、という話

結城友奈は勇者である-勇者の章-」最終話が放送された。

 

 

シリーズの集大成として、これ以上ない終わり方であったと思う。欲をいえばくめゆ組も出してほしかったが、若葉ード以上に一般視聴者が置いてきぼりになるような気がするし仕方ない部分もある。

さて、今回はその最終回がいかなる綱渡りの上に成り立っているのかを、シリーズ中で選択をミスった際に起こりうるバッドエンドをもとに見ていこうと思う。分かりやすい例で「諏訪が少し早く落ちていたら、四国の戦力強化が間に合わなかった」とかである。

時系列順に示す。

杏の研究がなかった

のわゆの中では大きな変化はないが、わすゆ以降の満開が別物になっていただろう。吉と出るか凶と出るかは不明だが、(不本意にも)強力なあの満開システムを超える代物は生まれないだろう。人類滅亡ワンチャン。

精霊の精神汚染がなかった

おそらく神婚エンド。精神汚染がないからといってのわゆ組があれ以外の結末を迎えられたとは思えない。一方、千景の暴走がないため、神樹様の意思による変身解除がゆゆゆでも継続しているはずである。一期終盤の東郷さんがいつの時点で変身解除を受けるかは分からないが、壁に穴が開いてようやく「反逆の意思」となる気がする*1。この仮定でいくなら、一期のストーリーに大きな変化はないが、勇者の章最終話で東郷さんと風先輩が変身を解かれて詰む。

高嶋さんが神樹に吸収されなかった

どうなるか不明。もし友奈の大満開が高嶋さんと関係しているのならば、天の神に攻撃が届かず人類滅亡となる。ぶっちゃけ高嶋さんが神樹様の中でどのような役割を果たしているのか、あるいは神樹様にどのような影響を与えたのか確固たる答えがないので、妄想じみた想像しかできない。高嶋さんのおかげで神樹様に人間性が(ほんの少し)生まれた、とかだと個人的には感無量である。

ひなたが生贄になった

若葉ードが実現せず、友奈はあの空間から脱出できず、最終的に人類滅亡。生贄となることを回避したひなたの行動は「自己犠牲しないという自己犠牲」であり、はっきり言ってゆゆゆのテーマから完全に外れている、というか一段高いところ、というか異次元にある。「自分一人の苦しみで皆が助かるのならいいことだ」と「お前が苦しむってことは私たちも苦しむってことなんやぞ」という、勇者の章を貫く価値観の対立を頭に入れて「あなたの幸せのために、私は自分勝手にも生き残る」という選択を見ると、その凄まじさが分かる。そう、これは価値観とか信念とかそういう話ではなく、ただの「愛」である。その愛が最終的に人類を救ったのだから笑えない。

防人の壁外溶岩採取任務が失敗した

別に大丈夫である。

防人の橋頭堡建設作戦が失敗した

種が失われていればパワー不足で大満開が危うくなり、人類滅亡。種さえ戻れば別に大丈夫である。

防人が「種」の回収に失敗した

上に同じくパワー不足で人類滅亡。くめゆ本編では防人の任務の無意味さが強調されていたが、よりにもよって一番無意味そうな種の回収が、最も重大な役割を果たしたのは皮肉な話である。寓話的ともいえる。ところで最終話でメブ達何やってたんですかね。

 

 

 

これに加えて、もちろん各世代の勇者が一度でも敗北していたならあの最終話は無かったということを考えると、いかにあのハッピーエンドがギリギリの戦いの産物かがよく分かるだろう。まさに「勇気のバトン*2」である。

そしてもう一つ分かるのは、のわゆ及びくめゆが本編の強力な補完になっていることである。特にのわゆの展開は勇者の章を観た後だと計算ずくに思えてくる。そういう意味でも勇者の章最終話はシリーズの締めくくりに相応しい、まさに集大成といえるし、これから先ゆゆゆの新作が出るのかどうか大変不安だし、大満開友奈はやっぱり格好良いし、これから先毎週金曜になるとそわそわしてしまいそうだし、あらゆることに対する意欲を喪失してしまったような感覚さえある。その無力感は一期最終回後のものと同じものだということを再確認するたび、勇者の章は素晴らしかったと実感するのである。もはや何を言っているのか自分でも分からない。今更喪失感と感動が襲ってきて精神がヤバい。

 

補足

最後に書いておきたいことがある。それは「くめゆ」の存在意義についてである。

「くめゆ」は楠芽吹の成長物語としてよくまとまっており、もちろん単品でも十分魅力的である。しかし「くめゆ」という物語を生み出したタカヒロの意図は、はっきり言ってよく分からない。勇者であるシリーズの核はあくまで「ゆゆゆ」であるとすると、「のわゆ」は良質な前日譚であり、「わすゆ(アニメ化前)」は一期の補完として機能していた。しかし結局、「くめゆ」が「ゆゆゆ」の引き立て役となることはなかった。一期の園子様のように、ノベルから「ゆゆゆ」への登場もなかったし、芽吹達の行動は「ゆゆゆ」のストーリーにほとんど干渉しなかった。一期と勇者の章の間を繋ぐ物語のような触れ込みであったはずだが、やったのは設定・状況の解説と勇者の章の先取りを少々、それだけである。残りは芽吹達の物語を描くことに費やされていた。設定や状況の解説など、勇者の章の3・4話辺りにねじ込んでおけばよかった。わざわざ勇者の「ハズレ」という登場しなくても誰も気にしないような存在まで持ち出して、魅力的なキャラクターを創って、芽吹という個人が自分で自分にバトンを繋いでゆく物語を描く必要などどこにもなかった。だがタカヒロはそれをやった。なぜだろうか。

私の答えはこれだ。

「くめゆ」は勇者の章の主題を示すために作られたのだ。

「くめゆ」にあってそれまでの勇者であるシリーズになかったのは、「一人の犠牲も許さない」という感情的で不合理な熱い信念である。これは「勇者の章」で勇者部によって実行された。

しかし「くめゆ」の特色はそれだけではない。それはこの芽吹の独白に端的に表れている。

 (全部、『今』に繋がっていた……!無駄なものなんて……何一つなかった……!)

 「のわゆ」の最後で、世界は天の神の炎に包まれる。人類の無力さが強調され、それでも人類は未来に希望を託す。「わすゆ」の勇者は軽重あれど悲惨な目に遭う。そして最終的には勇者の、時には悲惨な人生が、一つ残らず不可欠なものとなって、人類を救う。芽吹の独白は、勇者全員に当てはまる。まさしく無駄なものなど何一つなく、すべて『今』―友奈の救出とその後の大満開―に繋がっていて、その象徴が、友奈救出時の英霊集合シーンなのだ。これがシリーズの集大成でなくて何だというのだ。くそうタカヒロ、小粋な真似を。絶対許さねえ。一生ついていきます。

 

 

結局何が言いたいかって、ゆゆゆに出会えてよかった。それだけです。

ゆゆゆに関わるすべての人達に、拝。

 

 

 

*1:もし壁に穴を開ける前に東郷さんの変身が解かれた場合、一期の終わりはどうなるのだろうか。全くわからん

*2:この言葉便利過ぎない?