過度の一般化は身を滅ぼすぞ

ほぼ全記事において勇者であるシリーズのネタバレを含みます

【結城友奈は勇者である】友奈の下着の在りかたに、世界平和の礎を見よ

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結城友奈は勇者である-勇者の章-第五話が放送された。

 

今回は鬱というよりも最終回に向けた前振りのような意味合いが強く、世界の危機を前に勇者部のぎくしゃくとしたやり取りもかすんだ感がある。また、危機の解決(解決するとして)に最終回全体を費やすことが予想されるため、ファンによる「普通の日常回」があってほしいという望みは潰えたように思える。

 

友奈をひたすら追い込んでいく展開に対し、視聴者の反応は良いとは言えない。ゆゆゆは極めて多様な要素を含んだ作品であり、期待しているものは「勇者部の日常が見たい」「それが主題じゃないのは分かっているが、熱いバトルが見たい*1」「ハッピーエンドが見たい」「友奈の泣き顔が見たい、本当にすまないと思っている」「夏凜のレ(大赦検閲済)目をもう一度」「なんでもいいから鬱展開が見たい」「東郷さんのおっぱいぷるんぷるん!」など、人によってさまざまである。全てのニーズを満たすことはかなわないにしろ、もう少し何とかならなかったのか、と多くの人が思っているところであろう。

 

勇者の章はどうあるべきだったのだろうか。もちろん、最終回を見ずにアニメ全体を雑に語るのは大きなシツレイに当たる。古事記にもそう書かれている。具体的には天の逆手のくだりの隣の隣ぐらいに。

 

しかし、私は考えなければならない。考え、考え、考え抜いた私は、友奈の下着について記事を書くことにした。

 

友奈のノーブラ疑惑・概要

事の発端は勇者の章第三話。二話という山を越え、安心しかかっていた視聴者を殴りにきた回である。ある程度訓練された勇者部員ならノーブラという単語を見ただけで思い浮かぶと思われる。何のことか分からないという方は、ぜひtwitterで「友奈 ノーブラ」と検索し、サジェスト汚染に一役買っていただこう。

 

さて、件のシーンでは友奈の胸部のかなり広い範囲が見えているにもかかわらず、そこにあるべきブラジャーが全く確認できない。このことから「友奈はノーブラ」というセンセーショナルでセクシャルでセンシュアルなパワーセンテンスが爆誕したのである。この事実―少なくとも当時はそう思っていた―は辛い展開で心をすり減らしていた人々への、かすかな、しかし確かな清涼剤となったのである。

 

しかしながらよく考えてみると、「友奈はノーブラ」説の根拠となっているのはわずか1カットのみ。ここから友奈が常にノーブラであると考えるのはいささか飛躍にすぎるのではないか。だがそうでないなら一体なぜ、友奈はあのような開放的な御姿(おすがた)を晒したのだろうか。この記事では考えうるすべての可能性に当たり、考察を与えていく。

 

1.常にノーブラである

常識的な答えの一つ。現在、友奈の下着について有力な情報を与えてくれるシーンが一つしか存在しない以上、その一つから結論を出すしかない、と考えた場合にはこの答えにたどり着く。しかしだ。しかしこの答えには、重大な論理的欠陥が存在する。下の動画の0:59を見てほしい。

www.youtube.com

おそらく放送前に一度は見たことがあると思うが、この刻印を友奈のものだと見抜けた者がどれだけいただろうか?大方の反応は「キービジュと左右が違うのは気になるけど、メガロポリスのサイズからして東郷さんだよねー」ぐらいのものだったと記憶している。もうお分かりだろう。

友奈は結構なモノをお持ちでいらっしゃるのだ。

それは東郷さんのメガロポリスと取り違えられるほどのものだ。メトロポリスと形容してもいいかもしれない。それがお前、常にノーブラって、お前……!

そんでもって友奈が活発な中学校生活を送るんだぞ……?そんなもの、そんなもの……凶器じゃないか……狂気の沙汰じゃないか……お前……友奈がソフトボールのピッチャーやってるとこ見たんだろ?もしあそこでノーブラだったらお前……!ボールが……ソフトなボールが跳ね回るぞ?友奈のソフトなボールが友奈の狭いグラウンドを縦横無尽に跳ね回るぞ?そんなものメンメンメンメンコテメンメン不可避ではないか。許さん。

ということでこの可能性はありえない。大変遺憾である。

2.普段は着けているが、この日に限って着けていなかった

これも常識的な答え。例のシーンと、「そうはいっても着けてないはずがない」という理性的思考から導かれる。理由としては、タタリの苦しみのせいで締め付けがきつくなった、というのに説得力がある。この時点ではタタリは本格化していないが、軽度な影響はあっただろう。年明け以降はもはやブラとかそういう次元の話ではないガチの病人になってくるので、東郷さん救出後、健康体→ブラがきつい→普通に苦しい、という体調が悪くなっていく過程を順調に経ているだけだと説明をつけられる。というわけで、

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ここすき

この時点ではすでにノーブラである。メガロポリスに呑み込まれるメトロポリス。東郷さん歓喜。東郷さんが幸せだと私も幸せ。

3.着けていると同時に着けていない

同じ第三話における園子の台詞「あってないようなものシュレディンガー」に由来する。シュレーディンガーの猫が好きすぎることに定評のある日本だが、今期でも十二大戦において言及され、ノルマを達成したことは記憶に新しい。シュレーディンガーの猫が何なのか分からないという方には自分でググって頂くとして、とにかくブラは存在していると同時に存在していない、あるいは非ノーブラ友奈とノーブラ友奈が確率的に重なり合っている、と雑な理解をしておけばよい。それにしても1期で人間をやめていたことが明らかになった友奈だが、ここまで訳の分からない存在になられるとこちらとしても困ってしまう。

実際にはブラと友奈は物理的接触による相互作用、ひいては観測をしあう存在なので、ありうるのは非ノーブラ友奈とノーブラ友奈の重ね合わせである。しかしながら友奈は常に東郷さんによる監視 熱視線 ストーカー被害観測を受け続けており、ブラの有無など一瞬で判明するであろう。よって成立するのは

ブラ状態「存在するブラ、ブラを着けている友奈、それを知っている東郷さん」

ノーブラ状態「存在しないブラ、ノーブラ友奈、それを知っている東郷さん」

の二つの状態の重ね合わせである。ここでは我々視聴者の存在は蚊帳の外に置かねばならず、例えば「重ね合わせの状態にあったこの系が、視聴者の観測によりノーブラ状態に確定した」とは言えない。今私が話しているのは作品世界の中の話なのだ。したがって、例のシーンでブラの不在を観測したのはあくまで友奈であり、友奈から見てブラが存在しなかった以上、この友奈はノーブラ友奈であり、また東郷さんはそれを知っている。

以上の議論から何が言えるか。

何も言えない。

結局のところ、異なる状態の重ね合わせを認めたところで、ノーブラ状態という正解が提示されてしまった以上は、「この系はノーブラ状態にありますね」ということしか言えない。せいぜい、多世界解釈を持ち込んで「こことは異なる宇宙に、非ノーブラ友奈は存在する。ただしそれを知ることはできない」と嘯くことぐらいしか、できない。量子力学をマクロな事象に当てはめることの無意味さを噛みしめよう。

4.この世界には下着orブラが存在しない

そもそもこの友奈ノーブラ論争が巻き起こった*2要因の一つとして、ゆゆゆでは下着に関わる描写が一切ない、ということに目を向けねばなるまい。ゆゆゆは温泉回及び水着回を有する上に、アニメにおいて下着の描写は珍しくなく、世の中には1千万回近く見られた下着も存在するというのに。これは明らかに異常な事態である。

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とすれば、ゆゆゆ世界には下着という文化が存在しない、あるいはブラという文化が存在しない、という強引な結論も、否定できないものとなってくる。勇者であるシリーズが下着に関して言及したのはただ一度、のわゆの冒頭で千景が友奈に言った「パンツ、見えそうだから」だけである。300年の時の流れの中、道徳観の逆行とともに下着の存在が抹消されたと考えることはそう非論理的ではない。もしかしたらパンツだけは残っているのかもしれない。というかさすがにパンツは残っているだろう*3

とにかくもこの解釈を採用した場合、わすゆ以降の登場人物は総ノーブラということになる。下着という概念が存在しない退屈な世界。果たしてブラなくして人類はやっていけるのだろうか。

―やっていけるのだろう。今の人類の所有物のうち、その存続に不可欠なものなどほとんどない。ブラ無き世界は我々の世界と大きく異なり、それを我々は「異常な世界」あるいは「ディストピア」あるいは「楽園」と呼ぶであろう。しかしその世界の住人にとってはブラ無き世界こそたった一つのかけがえ無き現実であり、それを否定するのも賛美するのも、我々の傲慢である。友奈のソフトボールエンタイトルツーベースしようと、そもそもブラという概念がないのだからノーブラという概念もまたないゆゆゆ世界の住人は違和感を抱かないというわけだ。非常に筋が通っている。

というわけでゆゆゆ世界には、少なくともブラという概念が存在しない。ゆゆゆのあらゆる登場人物はノーブラ。東郷さんのメガロポリスはグリーンベルトを越え、無秩序な都市計画の元、際限なく広がり、やがて自らの重力による圧縮が始まり、その密度は果てなく増大し、やがてその半径はシュヴァルツシルト半径を下回り、光を含めたあらゆる物質が脱出不可能な天体が出現する。これがブラックホールである。

まとめ

というわけで、「普段は着けているが、この日に限って着けていなかった」と「この世界には下着orブラが存在しない」が有力な説となった。お好みで「着けていると同時に着けていない」をプラスしてもよい。この他にも「極めて透明で屈折率が空気にほぼ等しいブラを着けている」「東郷さんとの結婚式のため、サラシに慣れる訓練をしている」「東郷さんがすでに盗んでいた」「東郷さんが毎日盗んでいる」「東郷さんのα波により洗脳された友奈は、ブラが『ない』という状態を認識できなくなっている」「横文字を嫌う東郷さんの手により、友奈の家中のブラはすべてサラシに置き換わっている」「ゆうみも流行れ」といった可能性が残っているが、いずれも必要性がないので省かせてもらった。ゆうみも流行れ。

 

 

 

 

さて、本題に戻ろう。確か勇者の章の話だった。

これまで述べたように、勇者の章の評価は賛否両論である。すでに沈静化しているものの、特に第五話放送直後はかなりネガティブな意見も散見された。少なくとも平和な状態とは言えないであろう。しかし――

”平和”とは何なのだろう?もしゆゆゆ二期が無残な爆死を遂げ、誰も注目しないアニメとなっていたなら、否定的な意見はだいぶ減る一方、コアなファンはその内容を肯定し続けていただろう。それは平和と呼べるのだろうか?

「平和」を一般的な意味へと拡張しよう。この世にあるあらゆる概念がそうであるように、平和に明確な定義はない。加えて、平和はつかみどころがない存在である。平和とは、人類の根源である闘争への反逆なのだろうか?人類の根源である平穏への回帰なのだろうか?平和とは幸福なのだろうか?秩序なのだろうか?争いのない状態なのだろうか?停滞なのだろうか?緩やかな前進なのだろうか?急速な前進なのだろうか?それとも後退なのだろうか?

答えはない。

我々が平和とは何かを知ることはない。だが、平和に近づくことはできる。それはちょうど、幸福とは何かを確固たる実感として知らないまま幸福を追い求める我々のように。もうお分かりであろう。

友奈のノーブラ談義は、平和へと近づく道だ。

3話放送当時、その内容に対して様々な評価が寄せられた。その中には当然、互いに真っ向から対立し合うものもあった。それは別に良いのだ。闘争あっての人類、矛盾あっての止揚なのだから。ただ、その数多くの感想の中で唯一、互いに対立しないものがあった。それが、友奈のノーブラ談義だったのだ。もちろんそのディテールを突き詰めれば意見の相違が生まれるだろう。だがあのシーンを見た時の、「友奈がノーブラだった」という純粋な驚き、それだけは決して矛盾せず、人々を結びつける紐帯となったのだ。

加えてもう一つ。この記事では「常にノーブラ」説を却下したが、別にそれでもいいのだ。勇者であるシリーズという作品の軸から完全に外れた友奈のブラという存在はあらゆる製作陣の手をすり抜け、一千人の視聴者に一千通りの解釈を許す。あらゆる理想を抱え込む。異質なものの共存という困難な理想を地で行っているのだ。

タカヒロ達だって馬鹿ではない。賛否が割れることは重々承知の上で、勇者の章の展開を創ったのだろう。だが友奈のノーブラがここまで反響を呼ぶとは予想しなかったに違いない。これは言わば、タカヒロ達によって定められた対立という運命に対する、視聴者の反抗である。それはいつか、人類の根底に眠る暴力性に対する反抗を呼び覚まし、恒久平和という至上かつ至難の理想の、その礎となるだろう。

友奈に、ノーブラ平和賞を。*4

*1:これ以降はすべて私の期待していたものである。実はこれらを一挙に解決する方法があり、通称「一期の再放送」と呼称される。

*2:巻き起こっていない。

*3:このあたりは時代背景によって変わってくるが、少なくとも現代日本のような生活を維持するのであれば、パンツは不可欠である。理由は察していただきたい。ブラジャーも必要な存在であることに変わりはないが、300年も経てばその機能が衣服の中に吸収される可能性が十分にある。

*4:この一文が書きたくてこの記事を書いた。本当にすまないと思っている。