過度の一般化は身を滅ぼすぞ

ほぼ全記事において勇者であるシリーズのネタバレを含みます

【結城友奈は勇者である】勇者の章最終話がいかに奇跡か、という話

結城友奈は勇者である-勇者の章-」最終話が放送された。

 

 

シリーズの集大成として、これ以上ない終わり方であったと思う。欲をいえばくめゆ組も出してほしかったが、若葉ード以上に一般視聴者が置いてきぼりになるような気がするし仕方ない部分もある。

さて、今回はその最終回がいかなる綱渡りの上に成り立っているのかを、シリーズ中で選択をミスった際に起こりうるバッドエンドをもとに見ていこうと思う。分かりやすい例で「諏訪が少し早く落ちていたら、四国の戦力強化が間に合わなかった」とかである。

時系列順に示す。

杏の研究がなかった

のわゆの中では大きな変化はないが、わすゆ以降の満開が別物になっていただろう。吉と出るか凶と出るかは不明だが、(不本意にも)強力なあの満開システムを超える代物は生まれないだろう。人類滅亡ワンチャン。

精霊の精神汚染がなかった

おそらく神婚エンド。精神汚染がないからといってのわゆ組があれ以外の結末を迎えられたとは思えない。一方、千景の暴走がないため、神樹様の意思による変身解除がゆゆゆでも継続しているはずである。一期終盤の東郷さんがいつの時点で変身解除を受けるかは分からないが、壁に穴が開いてようやく「反逆の意思」となる気がする*1。この仮定でいくなら、一期のストーリーに大きな変化はないが、勇者の章最終話で東郷さんと風先輩が変身を解かれて詰む。

高嶋さんが神樹に吸収されなかった

どうなるか不明。もし友奈の大満開が高嶋さんと関係しているのならば、天の神に攻撃が届かず人類滅亡となる。ぶっちゃけ高嶋さんが神樹様の中でどのような役割を果たしているのか、あるいは神樹様にどのような影響を与えたのか確固たる答えがないので、妄想じみた想像しかできない。高嶋さんのおかげで神樹様に人間性が(ほんの少し)生まれた、とかだと個人的には感無量である。

ひなたが生贄になった

若葉ードが実現せず、友奈はあの空間から脱出できず、最終的に人類滅亡。生贄となることを回避したひなたの行動は「自己犠牲しないという自己犠牲」であり、はっきり言ってゆゆゆのテーマから完全に外れている、というか一段高いところ、というか異次元にある。「自分一人の苦しみで皆が助かるのならいいことだ」と「お前が苦しむってことは私たちも苦しむってことなんやぞ」という、勇者の章を貫く価値観の対立を頭に入れて「あなたの幸せのために、私は自分勝手にも生き残る」という選択を見ると、その凄まじさが分かる。そう、これは価値観とか信念とかそういう話ではなく、ただの「愛」である。その愛が最終的に人類を救ったのだから笑えない。

防人の壁外溶岩採取任務が失敗した

別に大丈夫である。

防人の橋頭堡建設作戦が失敗した

種が失われていればパワー不足で大満開が危うくなり、人類滅亡。種さえ戻れば別に大丈夫である。

防人が「種」の回収に失敗した

上に同じくパワー不足で人類滅亡。くめゆ本編では防人の任務の無意味さが強調されていたが、よりにもよって一番無意味そうな種の回収が、最も重大な役割を果たしたのは皮肉な話である。寓話的ともいえる。ところで最終話でメブ達何やってたんですかね。

 

 

 

これに加えて、もちろん各世代の勇者が一度でも敗北していたならあの最終話は無かったということを考えると、いかにあのハッピーエンドがギリギリの戦いの産物かがよく分かるだろう。まさに「勇気のバトン*2」である。

そしてもう一つ分かるのは、のわゆ及びくめゆが本編の強力な補完になっていることである。特にのわゆの展開は勇者の章を観た後だと計算ずくに思えてくる。そういう意味でも勇者の章最終話はシリーズの締めくくりに相応しい、まさに集大成といえるし、これから先ゆゆゆの新作が出るのかどうか大変不安だし、大満開友奈はやっぱり格好良いし、これから先毎週金曜になるとそわそわしてしまいそうだし、あらゆることに対する意欲を喪失してしまったような感覚さえある。その無力感は一期最終回後のものと同じものだということを再確認するたび、勇者の章は素晴らしかったと実感するのである。もはや何を言っているのか自分でも分からない。今更喪失感と感動が襲ってきて精神がヤバい。

 

補足

最後に書いておきたいことがある。それは「くめゆ」の存在意義についてである。

「くめゆ」は楠芽吹の成長物語としてよくまとまっており、もちろん単品でも十分魅力的である。しかし「くめゆ」という物語を生み出したタカヒロの意図は、はっきり言ってよく分からない。勇者であるシリーズの核はあくまで「ゆゆゆ」であるとすると、「のわゆ」は良質な前日譚であり、「わすゆ(アニメ化前)」は一期の補完として機能していた。しかし結局、「くめゆ」が「ゆゆゆ」の引き立て役となることはなかった。一期の園子様のように、ノベルから「ゆゆゆ」への登場もなかったし、芽吹達の行動は「ゆゆゆ」のストーリーにほとんど干渉しなかった。一期と勇者の章の間を繋ぐ物語のような触れ込みであったはずだが、やったのは設定・状況の解説と勇者の章の先取りを少々、それだけである。残りは芽吹達の物語を描くことに費やされていた。設定や状況の解説など、勇者の章の3・4話辺りにねじ込んでおけばよかった。わざわざ勇者の「ハズレ」という登場しなくても誰も気にしないような存在まで持ち出して、魅力的なキャラクターを創って、芽吹という個人が自分で自分にバトンを繋いでゆく物語を描く必要などどこにもなかった。だがタカヒロはそれをやった。なぜだろうか。

私の答えはこれだ。

「くめゆ」は勇者の章の主題を示すために作られたのだ。

「くめゆ」にあってそれまでの勇者であるシリーズになかったのは、「一人の犠牲も許さない」という感情的で不合理な熱い信念である。これは「勇者の章」で勇者部によって実行された。

しかし「くめゆ」の特色はそれだけではない。それはこの芽吹の独白に端的に表れている。

 (全部、『今』に繋がっていた……!無駄なものなんて……何一つなかった……!)

 「のわゆ」の最後で、世界は天の神の炎に包まれる。人類の無力さが強調され、それでも人類は未来に希望を託す。「わすゆ」の勇者は軽重あれど悲惨な目に遭う。そして最終的には勇者の、時には悲惨な人生が、一つ残らず不可欠なものとなって、人類を救う。芽吹の独白は、勇者全員に当てはまる。まさしく無駄なものなど何一つなく、すべて『今』―友奈の救出とその後の大満開―に繋がっていて、その象徴が、友奈救出時の英霊集合シーンなのだ。これがシリーズの集大成でなくて何だというのだ。くそうタカヒロ、小粋な真似を。絶対許さねえ。一生ついていきます。

 

 

結局何が言いたいかって、ゆゆゆに出会えてよかった。それだけです。

ゆゆゆに関わるすべての人達に、拝。

 

 

 

*1:もし壁に穴を開ける前に東郷さんの変身が解かれた場合、一期の終わりはどうなるのだろうか。全くわからん

*2:この言葉便利過ぎない?

【結城友奈は勇者である】友奈の下着の在りかたに、世界平和の礎を見よ

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結城友奈は勇者である-勇者の章-第五話が放送された。

 

今回は鬱というよりも最終回に向けた前振りのような意味合いが強く、世界の危機を前に勇者部のぎくしゃくとしたやり取りもかすんだ感がある。また、危機の解決(解決するとして)に最終回全体を費やすことが予想されるため、ファンによる「普通の日常回」があってほしいという望みは潰えたように思える。

 

友奈をひたすら追い込んでいく展開に対し、視聴者の反応は良いとは言えない。ゆゆゆは極めて多様な要素を含んだ作品であり、期待しているものは「勇者部の日常が見たい」「それが主題じゃないのは分かっているが、熱いバトルが見たい*1」「ハッピーエンドが見たい」「友奈の泣き顔が見たい、本当にすまないと思っている」「夏凜のレ(大赦検閲済)目をもう一度」「なんでもいいから鬱展開が見たい」「東郷さんのおっぱいぷるんぷるん!」など、人によってさまざまである。全てのニーズを満たすことはかなわないにしろ、もう少し何とかならなかったのか、と多くの人が思っているところであろう。

 

勇者の章はどうあるべきだったのだろうか。もちろん、最終回を見ずにアニメ全体を雑に語るのは大きなシツレイに当たる。古事記にもそう書かれている。具体的には天の逆手のくだりの隣の隣ぐらいに。

 

しかし、私は考えなければならない。考え、考え、考え抜いた私は、友奈の下着について記事を書くことにした。

 

友奈のノーブラ疑惑・概要

事の発端は勇者の章第三話。二話という山を越え、安心しかかっていた視聴者を殴りにきた回である。ある程度訓練された勇者部員ならノーブラという単語を見ただけで思い浮かぶと思われる。何のことか分からないという方は、ぜひtwitterで「友奈 ノーブラ」と検索し、サジェスト汚染に一役買っていただこう。

 

さて、件のシーンでは友奈の胸部のかなり広い範囲が見えているにもかかわらず、そこにあるべきブラジャーが全く確認できない。このことから「友奈はノーブラ」というセンセーショナルでセクシャルでセンシュアルなパワーセンテンスが爆誕したのである。この事実―少なくとも当時はそう思っていた―は辛い展開で心をすり減らしていた人々への、かすかな、しかし確かな清涼剤となったのである。

 

しかしながらよく考えてみると、「友奈はノーブラ」説の根拠となっているのはわずか1カットのみ。ここから友奈が常にノーブラであると考えるのはいささか飛躍にすぎるのではないか。だがそうでないなら一体なぜ、友奈はあのような開放的な御姿(おすがた)を晒したのだろうか。この記事では考えうるすべての可能性に当たり、考察を与えていく。

 

1.常にノーブラである

常識的な答えの一つ。現在、友奈の下着について有力な情報を与えてくれるシーンが一つしか存在しない以上、その一つから結論を出すしかない、と考えた場合にはこの答えにたどり着く。しかしだ。しかしこの答えには、重大な論理的欠陥が存在する。下の動画の0:59を見てほしい。

www.youtube.com

おそらく放送前に一度は見たことがあると思うが、この刻印を友奈のものだと見抜けた者がどれだけいただろうか?大方の反応は「キービジュと左右が違うのは気になるけど、メガロポリスのサイズからして東郷さんだよねー」ぐらいのものだったと記憶している。もうお分かりだろう。

友奈は結構なモノをお持ちでいらっしゃるのだ。

それは東郷さんのメガロポリスと取り違えられるほどのものだ。メトロポリスと形容してもいいかもしれない。それがお前、常にノーブラって、お前……!

そんでもって友奈が活発な中学校生活を送るんだぞ……?そんなもの、そんなもの……凶器じゃないか……狂気の沙汰じゃないか……お前……友奈がソフトボールのピッチャーやってるとこ見たんだろ?もしあそこでノーブラだったらお前……!ボールが……ソフトなボールが跳ね回るぞ?友奈のソフトなボールが友奈の狭いグラウンドを縦横無尽に跳ね回るぞ?そんなものメンメンメンメンコテメンメン不可避ではないか。許さん。

ということでこの可能性はありえない。大変遺憾である。

2.普段は着けているが、この日に限って着けていなかった

これも常識的な答え。例のシーンと、「そうはいっても着けてないはずがない」という理性的思考から導かれる。理由としては、タタリの苦しみのせいで締め付けがきつくなった、というのに説得力がある。この時点ではタタリは本格化していないが、軽度な影響はあっただろう。年明け以降はもはやブラとかそういう次元の話ではないガチの病人になってくるので、東郷さん救出後、健康体→ブラがきつい→普通に苦しい、という体調が悪くなっていく過程を順調に経ているだけだと説明をつけられる。というわけで、

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ここすき

この時点ではすでにノーブラである。メガロポリスに呑み込まれるメトロポリス。東郷さん歓喜。東郷さんが幸せだと私も幸せ。

3.着けていると同時に着けていない

同じ第三話における園子の台詞「あってないようなものシュレディンガー」に由来する。シュレーディンガーの猫が好きすぎることに定評のある日本だが、今期でも十二大戦において言及され、ノルマを達成したことは記憶に新しい。シュレーディンガーの猫が何なのか分からないという方には自分でググって頂くとして、とにかくブラは存在していると同時に存在していない、あるいは非ノーブラ友奈とノーブラ友奈が確率的に重なり合っている、と雑な理解をしておけばよい。それにしても1期で人間をやめていたことが明らかになった友奈だが、ここまで訳の分からない存在になられるとこちらとしても困ってしまう。

実際にはブラと友奈は物理的接触による相互作用、ひいては観測をしあう存在なので、ありうるのは非ノーブラ友奈とノーブラ友奈の重ね合わせである。しかしながら友奈は常に東郷さんによる監視 熱視線 ストーカー被害観測を受け続けており、ブラの有無など一瞬で判明するであろう。よって成立するのは

ブラ状態「存在するブラ、ブラを着けている友奈、それを知っている東郷さん」

ノーブラ状態「存在しないブラ、ノーブラ友奈、それを知っている東郷さん」

の二つの状態の重ね合わせである。ここでは我々視聴者の存在は蚊帳の外に置かねばならず、例えば「重ね合わせの状態にあったこの系が、視聴者の観測によりノーブラ状態に確定した」とは言えない。今私が話しているのは作品世界の中の話なのだ。したがって、例のシーンでブラの不在を観測したのはあくまで友奈であり、友奈から見てブラが存在しなかった以上、この友奈はノーブラ友奈であり、また東郷さんはそれを知っている。

以上の議論から何が言えるか。

何も言えない。

結局のところ、異なる状態の重ね合わせを認めたところで、ノーブラ状態という正解が提示されてしまった以上は、「この系はノーブラ状態にありますね」ということしか言えない。せいぜい、多世界解釈を持ち込んで「こことは異なる宇宙に、非ノーブラ友奈は存在する。ただしそれを知ることはできない」と嘯くことぐらいしか、できない。量子力学をマクロな事象に当てはめることの無意味さを噛みしめよう。

4.この世界には下着orブラが存在しない

そもそもこの友奈ノーブラ論争が巻き起こった*2要因の一つとして、ゆゆゆでは下着に関わる描写が一切ない、ということに目を向けねばなるまい。ゆゆゆは温泉回及び水着回を有する上に、アニメにおいて下着の描写は珍しくなく、世の中には1千万回近く見られた下着も存在するというのに。これは明らかに異常な事態である。

ご注文はうさぎですか? 第1羽「ひと目で、尋常でないもふもふだと見抜いたよ」 アニメ/動画 - ニコニコ動画

とすれば、ゆゆゆ世界には下着という文化が存在しない、あるいはブラという文化が存在しない、という強引な結論も、否定できないものとなってくる。勇者であるシリーズが下着に関して言及したのはただ一度、のわゆの冒頭で千景が友奈に言った「パンツ、見えそうだから」だけである。300年の時の流れの中、道徳観の逆行とともに下着の存在が抹消されたと考えることはそう非論理的ではない。もしかしたらパンツだけは残っているのかもしれない。というかさすがにパンツは残っているだろう*3

とにかくもこの解釈を採用した場合、わすゆ以降の登場人物は総ノーブラということになる。下着という概念が存在しない退屈な世界。果たしてブラなくして人類はやっていけるのだろうか。

―やっていけるのだろう。今の人類の所有物のうち、その存続に不可欠なものなどほとんどない。ブラ無き世界は我々の世界と大きく異なり、それを我々は「異常な世界」あるいは「ディストピア」あるいは「楽園」と呼ぶであろう。しかしその世界の住人にとってはブラ無き世界こそたった一つのかけがえ無き現実であり、それを否定するのも賛美するのも、我々の傲慢である。友奈のソフトボールエンタイトルツーベースしようと、そもそもブラという概念がないのだからノーブラという概念もまたないゆゆゆ世界の住人は違和感を抱かないというわけだ。非常に筋が通っている。

というわけでゆゆゆ世界には、少なくともブラという概念が存在しない。ゆゆゆのあらゆる登場人物はノーブラ。東郷さんのメガロポリスはグリーンベルトを越え、無秩序な都市計画の元、際限なく広がり、やがて自らの重力による圧縮が始まり、その密度は果てなく増大し、やがてその半径はシュヴァルツシルト半径を下回り、光を含めたあらゆる物質が脱出不可能な天体が出現する。これがブラックホールである。

まとめ

というわけで、「普段は着けているが、この日に限って着けていなかった」と「この世界には下着orブラが存在しない」が有力な説となった。お好みで「着けていると同時に着けていない」をプラスしてもよい。この他にも「極めて透明で屈折率が空気にほぼ等しいブラを着けている」「東郷さんとの結婚式のため、サラシに慣れる訓練をしている」「東郷さんがすでに盗んでいた」「東郷さんが毎日盗んでいる」「東郷さんのα波により洗脳された友奈は、ブラが『ない』という状態を認識できなくなっている」「横文字を嫌う東郷さんの手により、友奈の家中のブラはすべてサラシに置き換わっている」「ゆうみも流行れ」といった可能性が残っているが、いずれも必要性がないので省かせてもらった。ゆうみも流行れ。

 

 

 

 

さて、本題に戻ろう。確か勇者の章の話だった。

これまで述べたように、勇者の章の評価は賛否両論である。すでに沈静化しているものの、特に第五話放送直後はかなりネガティブな意見も散見された。少なくとも平和な状態とは言えないであろう。しかし――

”平和”とは何なのだろう?もしゆゆゆ二期が無残な爆死を遂げ、誰も注目しないアニメとなっていたなら、否定的な意見はだいぶ減る一方、コアなファンはその内容を肯定し続けていただろう。それは平和と呼べるのだろうか?

「平和」を一般的な意味へと拡張しよう。この世にあるあらゆる概念がそうであるように、平和に明確な定義はない。加えて、平和はつかみどころがない存在である。平和とは、人類の根源である闘争への反逆なのだろうか?人類の根源である平穏への回帰なのだろうか?平和とは幸福なのだろうか?秩序なのだろうか?争いのない状態なのだろうか?停滞なのだろうか?緩やかな前進なのだろうか?急速な前進なのだろうか?それとも後退なのだろうか?

答えはない。

我々が平和とは何かを知ることはない。だが、平和に近づくことはできる。それはちょうど、幸福とは何かを確固たる実感として知らないまま幸福を追い求める我々のように。もうお分かりであろう。

友奈のノーブラ談義は、平和へと近づく道だ。

3話放送当時、その内容に対して様々な評価が寄せられた。その中には当然、互いに真っ向から対立し合うものもあった。それは別に良いのだ。闘争あっての人類、矛盾あっての止揚なのだから。ただ、その数多くの感想の中で唯一、互いに対立しないものがあった。それが、友奈のノーブラ談義だったのだ。もちろんそのディテールを突き詰めれば意見の相違が生まれるだろう。だがあのシーンを見た時の、「友奈がノーブラだった」という純粋な驚き、それだけは決して矛盾せず、人々を結びつける紐帯となったのだ。

加えてもう一つ。この記事では「常にノーブラ」説を却下したが、別にそれでもいいのだ。勇者であるシリーズという作品の軸から完全に外れた友奈のブラという存在はあらゆる製作陣の手をすり抜け、一千人の視聴者に一千通りの解釈を許す。あらゆる理想を抱え込む。異質なものの共存という困難な理想を地で行っているのだ。

タカヒロ達だって馬鹿ではない。賛否が割れることは重々承知の上で、勇者の章の展開を創ったのだろう。だが友奈のノーブラがここまで反響を呼ぶとは予想しなかったに違いない。これは言わば、タカヒロ達によって定められた対立という運命に対する、視聴者の反抗である。それはいつか、人類の根底に眠る暴力性に対する反抗を呼び覚まし、恒久平和という至上かつ至難の理想の、その礎となるだろう。

友奈に、ノーブラ平和賞を。*4

*1:これ以降はすべて私の期待していたものである。実はこれらを一挙に解決する方法があり、通称「一期の再放送」と呼称される。

*2:巻き起こっていない。

*3:このあたりは時代背景によって変わってくるが、少なくとも現代日本のような生活を維持するのであれば、パンツは不可欠である。理由は察していただきたい。ブラジャーも必要な存在であることに変わりはないが、300年も経てばその機能が衣服の中に吸収される可能性が十分にある。

*4:この一文が書きたくてこの記事を書いた。本当にすまないと思っている。

【結城友奈は勇者である】高校までの知識でわかる!園子による扇形ケーキ分割問題

結城友奈は勇者である-勇者の章-第一話が放送された。

PVから不穏な展開になることが危惧されていたが、一話はスタートダッシュということだろうか、ずいぶんとほのぼのとした日常が繰り広げられていた。「華やかな日々」のサブタイトルに相応しい内容だったといえるだろう。

さて、そんな一話の中でも印象的なシーンがあった。そう、風先輩が樹の作ったケーキを間違って六分割してしまったが、園子がそのうちの一つを見事に五等分した、あの場面である。

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友奈、風、樹、夏凜、そして園子。勇者部五人の絆を再確認させる出来事であったが、放送後はその方法を考える人が多く現れた。大きなヒントとなったのはこのカットだ。

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ここの夏凜かわいい

園子が分度器を持っている。これは極めて正しい描写である。通常「作図」とは定規とコンパスのみを用いるものを指すが、この作図によってできる操作は限られており、例えば一般角の三等分線が作図できないのは有名な話である*1

今回の場合で言うなら、ケーキの半径と面積の少なくとも一方は無理数である(円周率が絡む)ため、三角形となる四人分のケーキに関しては辺の長さを導出できず、作図が不可能になることが推測される*2

しかし園子は分度器を手に取った。これにより操作の自由度は飛躍的に向上する。その便利さはコンパスの不在を補って余りあるものだ。分度器の目盛りを利用して長さを測ることができるとすると、以下のようにして五等分が可能になる。

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汚い字で申し訳ない。ケーキの半径をrとおくとケーキ1/6の面積は(πr^2)/6であり、これを5等分して(πr^2)/30。あとは三角形がこの面積を持つような長さxを、三角比を用いて求めればよい。

実際にケーキを切るときには、次のようにすればよい。まず、分度器を用いて扇形の中心角を二分する。その切れ目を2πr/15にし、その端から扇形の角へ向かって切る。この操作をもう一度繰り返せば、望み通りのケーキが得られる*3

これにて一件落着である。

 

・・・。

 

・・・・・・。

 

何か・・・。

 

何かを忘れている気がする。とても、とても大事なことを。

 

決して忘れてはいけない、何かを。

 

思い出すんだ。そう。

 

中学校の記憶を。思い出を。

 

そうだ。

 

これ、中学校の知識でできる。

 

 

撤回

先ほど私は辺の長さを「三角比を用いて求め」ると書いた。だが違うのだ。私が利用したのはあくまで「30°、60°、90°の角を持つ三角形の性質」であり、これは中学数学の範囲である。証明も簡単で、受験生なら当然知っていないといけない。この方法を園子より先に思いつけなかった風先輩の進路がますます危ぶまれる結果となってしまう。妹がせっかくお菓子作りの才能を発揮したと思ったら突然進路を心配される風先輩が不憫でならないので、別の理由を考えるとしよう。例えば、「30°、60°、90°の角を持つ三角形」が登場しなかったから、とか。

 

第二の方法

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見にくくて申し訳ない。上画像の下は、風先輩がうまくケーキを六等分できなかった場合の五等分方法を示したものである。手順は全く同じで、上下で見比べると分かりやすい。この場合は三角比の知識が必要となり、園子ぐらいしかできなさそうだ。なお、ここでは中心角を2θとおいたが、θとおいても手間はほとんど変わらない。

 

これにて一件落着。そう思っていた時期が私にもありました。

しかしよく考えてみてほしい。扇形。等分。分度器。何も起きないはずがなく…。

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た っ た 一 つ の 冴 え た や り か た

この方法は風先輩がケーキをうまく等分できなかった場合にも通用する。分度器で中心角を測り、5で割り、終了。目盛りを使う必要すらない。あとは端っこの太くなっているところにイチゴを載せて完成。どうして園子はこの方法をとらなかったのか?

常識的な考えとして、「ケーキが崩れるから」というのがあるだろう。しかし園子の分割でもかなりの鋭角が現れている。それでも全く崩れていないから、ゆるふわな見た目に反してそこそこの強度はあるとみていいだろう。ではなぜか?ここで我々は「扇形ケーキ分割問題」というパラダイムを取り払う必要がある。このやり方はケーキが扇形である限り通用する。だがしかし……。

ケーキが、扇形ではなかったとしたら?

第三の方法

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裏から色々と透けていて申し訳ない。なにせここのところ紙の供給が不足しており、巷では神樹様の寿命が近いなんて噂も流れているぐらいだ。大赦は何をしているのだろうか。

これは風先輩がケーキを六等分できないばかりか、中心点をずらしてしまった場合にそのケーキを五等分する方法である。なんだかんだで勇者部の皆は食い意地が張っているので、一番小さいものが残ると考え、その場合を考えた。コンパスはないが分度器があるため、円の接線に垂直な線、すなわち直径を二本引くことによって真の中心を求めることができる。あとは元の扇形の面積から二つの三角形の面積を引くことで、全体の面積が出てくる。あとは第二の方法と同じようにしていけば、五等分が可能になる。「新しい中心角」「新しい半径」と書いてあるがミスで、これらはただの角と線分である。

しかし実際にはこの状況すら理想的である。ここではケーキ外周の二つの線分の長さが等しいとしたが、そのような都合のよいことは起こらない。

第四の方法(完全版)

風先輩がケーキを六等分できないばかりか、中心点をずらしてしまうばかりか、二つの辺の長さを揃えられなかった場合である、つまり、現実世界の話である。

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図と説明で画像を分けた。多少複雑になるが、やっていることは第三の方法と同じである。さて、ではこれで園子に追いつけたか?実は、まだ足りないのだ。

何が足りないのか。第二の方法に沿って、分割を試みればわかる。

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左の<失敗例>のようになり、綺麗に分割できないのだ。これはケーキの形が線対称でなくなったために起こった事態なのだが、これを防ぐためにはどうすればよいのだろうか。

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上の画像が完成図だ。数字は面積比を表す。この直線が得られれば、あとは第二の方法によって五等分が可能になる。どのようにこの直線を求めるか。

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上の画像において、直線上を動く点Pの位置にかかわらず、赤と橙で表された三角形の面積が等しくなるような直線を求めればよい。あとは加法定理と単純計算で、ナイフを入れるべき角度のタンジェントが明らかになる。これにて一件落着、である。

まとめ

いかがだっただろうか。後半に行けば行くほど汚い野郎の文字ばかりでムカついてきた方も多いと思うが、なんとかすべての場合に適応できる方法を見つけることができた。

なお、そもそもケーキの形が円でなかった場合は考慮していない。正直やってられないし、加えて樹は世界の改竄によって東郷さんの「お菓子作りが上手い」という部分を少しだけではあるが受けついでいるため、円形でないケーキを作るとは考えにくいからだ。東郷さんの作るぼた餅が、決して不揃いにならないように。

 

……あれ?

 

 

 

 

ハッピーエンドになるといいね……。

 

*1:よく「角の三等分線を作図できたらノーベル賞もの」などと話す教師がいるが、角の三等分線は「作図する方法が見つかっていない」のではなく「作図できないことが証明された」のであり、もしあなたが角の三等分線を作図できたなら、それは知らない間に他の道具を使っていたか、正確なものではないか、特別な角であったか、世界の理が天の神によって書き換えられていたのかのいずれかである。さらに言うならノーベル賞に数学賞はない。

*2:厳密な議論はできていないので、もし作図できたという方がいたらtwitterなどにご一報ください。

*3:分度器の目盛りを使わないとすれば、次のようになる。すなわち、x=2πr/15と余弦定理を用いて、図にあるすべての辺の長さをrの式で表す。余弦定理より、全ての辺の長さが分かっている三角形の角のコサインは辺の長さを用いた式で表せるが、この値は(当然だが)rの値に関係しない。あとは悠々と分度器で測った角に従い、ナイフを入れていくだけである。

【結城友奈は勇者である】花田チヨの年齢と正体を探る

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あなたは花田チヨをご存じだろうか?

 

花田チヨ(花田千代とも)はアニメ「結城友奈は勇者である」の登場人物。四国の静かな森の中に住む、チーズケーキが好物の女性とされる。「あぁ^~」と頻繁に口にすることから腐女子淫夢厨である可能性が高い。また「きたない」ともよく言うのできれい好きなのだろう。森に住んで大丈夫なのだろうか

 

このように花田チヨに関する情報は多いが、ただ一つ、年齢だけが不明である。ニコ生のコメントを見れば分かるが、多くの情報提供者が70代もしくは80代であるとしているものの、その年齢はバラバラ、ひどい場合だと一桁だったりする。このままでは世界に混乱が広がり、人類の罪は深まり、身体は闘争を求め、アーマードコアの新作が出るより先に天の神がバーテックスを降らせてしまう。そこで私は先日ニコ生で行われた一挙放送のコメントを資料とし、「結局なぜ供物が戻ってきたのか*1」「横文字が嫌いな東郷さんがどうやってPCに精通したのか」に次ぐ謎である花田チヨの年齢に迫っていきたい。

 

・「花田チヨ」及びそれに類似した名前が含まれるコメントを集計した。

・年齢が記されていないものは対象外とした。

・「人数」は上記の条件を満たすものの総数、「平均」はその年齢の平均値。「最高」「最低」はそれぞれ年齢の最大値、最小値である。

・特筆すべき事項をそれぞれ併記した。

 

第一話

*1:今のところ出ている情報で信用に足るものがないため謎とさせていただく

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結城友奈は勇者である 「終わる前の日常」のよさ

 

結城友奈は勇者である 鷲尾須美の章」、4話が放送された。

個人的な感想を述べると、最高だった。

Aパートでは3話と同じような日常を描きながら着々とフラグを建築していき、Bパートで一気に盛り上げ、落とす。バーテックス達の殺意に満ちた動き、銀の、1期の夏凜を彷彿とさせるような大立ち回り、花弁と血飛沫で赤く染まる画面。完全に予想を超えてきた。

原作も読むには読んだのだが、なんというか文体が全く自分に合わず、あまり楽しめなかった。アニメ化は英断であったという他ない。そしてこんな内容を3話のアレとセットで映画にしたことは狂気の沙汰であったという他ない。映画勢はどんな表情で映画館を後にしたのだろうか。

 

そして思った。「この3人の日常は、銀の死によって価値を増したのだ。」

 

は?とお思いになっても仕方ない。どうか最後まで読んでいただきたい。

 

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